わたしとジャーマンシェパード

第1話 プロローグ

 15年前わたしは三重県に住んでいました. 子供の世話に明け暮れていたわたしは犬を飼いたいと言われるのを恐れていました.これ以上何かの世話などしたくなかったものですから.しかし転勤が多く、すぐ友達と別れてしまう子供たちのために、犬を飼うことにしました.

わたしはもともと犬好きで、中学生のとき、親にせがんで飼った自分の犬がいました.とても利口な雑種で、教えたら私が言った数だけ吠えることができました.でも散歩のときは引っ張るし、3時ごろから
「早く散歩に連れていけ!」
と、うるさくワンワン吠えるわがままな犬でした.『犬の訓練』という本を買ってきて、脚足行進を教えましたがうまくいきません.テレビのラッシーのように、放していてもどこにも行かない犬が憧れでした.犬は5歳で死んでしまいましたが、やっと散歩から解放されたと、正直あまり悲しくなかったのです.

わたしとジャーマンシェパード

第2話 イリスが来たよ

こどもたちが幼稚園のとき『盲導犬ドリーナ』という絵本を読んでやりました.本ではパピーウォーカーは子犬を家の中で飼い、車に乗せてどこにでも連れていくのです.それはカルチャーショックでした.犬が家も外も自由に歩き回り、車でいっしょに旅行をする、こんなふうに犬が飼えたらなんて楽しいだろうと思いました.犬を飼うことにしたとき、その本のことを思い出しました.わたしの犬はこどもと同じように育てよう.そして子犬探しが始まりました.ラッシーのような犬を!!!

ペットショップに陳列されている犬は本能的に避けました.だってわたしがショーケースに入れられていたら、きっと気が変になるでしょう.わたしが嫌いなことは犬だって嫌なはずです.電話帳で訓練所を探し、紀州犬が欲しいと言いました.日本の犬なら丈夫だろうと考えました.
「産まれている兄弟犬の中から、目がキラキラしている子犬を自分で選びたい」
と言うと、訓練士は、
「あんたは訓練をしたいんだね.じゃあシェパードにしたらいいよ.十年楽しめるよ」
と言われました.シェパードなんてとんでもない.それにわたしはその犬種をよく知りません.成犬を見せてもらって、とても怖いと思いました.大きな犬が自分に飼えるだろうか?真剣に三日三晩考えました.知人が貸してくれた2冊の『平岩米吉』の本を読み返しました.そこに出てくるシェパードは、時々見かける恐ろしげなシェパードとは違いました.思慮深く愛情深い犬たちでした.わたしも何とかできるかもしれない.そうして45日のメスの子犬はイリスと名づけられ、こどもたちの夏休みに我が家に来ました.

わたしとジャーマンシェパード

第3話 イリス子育てを手伝う

イリスはリビングにくっつけて置かれた大きな犬小屋と、80坪の庭のどこからどこまでもが自分のものでした.わたしは小さな彼女を、連れて行けるところはどこへでも行きました.彼女はこどもたちのプールや音楽教室の送り迎えもお供しました.予防注射を打ってなくったって、車で森林公園や美しい渓谷、川へと出かけました.犬が一匹仲間に入るだけでこんなに楽しいとは思いませんでした.イリスはどこへ連れていっても、大変な喜びようで、生き生きしていて活発で幸福のシンボルのようでした.わたしはとても早起きになり、イリスと一緒に散歩に行くのが大好きになりました.彼女と歩くのなら何時間でも疲れません.イリスは毎朝わたしに会うと、激しく喜びます.泣きながら体をくねらせ、顔をわたしにこすりつけたり舐めたり大騒ぎです.わたしはこんなに愛されてとても幸せでした.このあいさつは彼女が死ぬまで続きました.

犬との生活で一番大事なのは、一緒に出かけることだと思います.そこで様々な体験をいっしょにすることにより、更に仲間としての絆が深くなるのではないでしょうか.その次に大事なのは厳しさでしょう.群れの一員としてわがままは許されません.

イリスは我が家に来た次の夏、初めて海に行きました.わたしは堤防の前の土手に、こども2人とイリスを並んで待たせました.
「ママが車から荷物を出し終わるまで、動いたらダメよ」と言い、終わってこどもたちの方を見ると、さあ大変、イリスがいません!
「イリスはどうしたの!?」と叫ぶと、こどもたちも
「あれ~!どうしたんだろう」と辺りをきょろきょろ見渡しますが、土手には犬一匹いません.
「そうだ!!」と、堤防の塀に乗り出して海をのぞき込むと、いました.イリスは泣きそうな顔で海に浮かんでいました.海に来たのが嬉しくて、こどもたちも気づかないほどすばやく海に飛び込んだらしいのです.わたしは堤防の端の階段のあるところまで、イリスを誘導して土手に上らせました。まだまだドジなシェパードでした.

わたしとジャーマンシェパード

第4話 しきり魔のイリス

平岩米吉さんの本にシェパードは、威張りたがりやと書いてありました.イリスはまさにその通りでした.わたしが子ども達を連れて自転車で散歩に行くと、必ずきかん気の息子とコウジ君が先頭を争います.いつもイリスはそれに加わり負けじと走ります.とくに息子には絶対に負けたくないらしいのです。また友人がビーグルを連れてきたので、一緒に散歩に行った時には、喜んで走っていったビーグルを追いかけひっくり返しました.ギャッと言ったビーグルは2度とイリスの前に出なくなりました.ある日ウォークラリーにイリスも連れて参加しました.ゴール近くなりみんな走り出したら、またイリスの負けん気が出て、となりを走っているおじさんと競争しようとしました.

犬の社会が厳しいと思ったのは、息子がイリスを、息子の友達はリンを連れて散歩に行ったときのことです.帰ってくるなり息子が
「今日はリンね、道路を歩くとイリスに怒られたの」
と言います.
「じゃあ、リンはどこと歩いたの」
「あのね.リンはどぶをずうっと歩いてた.上がってくるとリンはイリスに怒られてた」
イリスは普段は穏やかな犬ですが、息子やリンのように、自分より地位が低いものにはとても厳しい態度をとります.

わたしとジャーマンシェパード

第5話 チームプレー

静岡に転勤になり、イリスはそこで子犬を6頭産みました.わたしはオスとメスの2頭を残して飼うことにしました.イリスは子犬2頭に人と暮らす所作をすべて教えたらしく、3頭いても楽でした.犬たちは家の中ではどこにいるのかわからないくらい静かでした.その分外に頻繁に連れだし、活発に遊ばせました.

ある朝友人が、3才のオスのハスキーを連れて公園のグランドにいました.わたしは彼にあいさつをして、3頭のリードをはずしました.朝の5時ごろで人は誰もいません.4頭の犬は間隔を空け、静かに立っていました.すると本当に突然ハスキーが走り出しました.すぐに足の速いイリスの子どものオスが後から追いかけました.さらに姉妹のメスが後に続きました.ハスキーは2頭に追いたてられて、グラウンドの柵にそって、全力をあげて走りました.3頭の大きな犬が地響きを立てて走っている様子は、すごい迫力でした.するとわたしのそばにいたイリスが地を這うように走りだし、円を描いて走っているハスキーが来るであろうポジションに回り込みました.イリスの目の前をハスキーが通り過ぎようとしたとき、跳びあがりハスキーの首に噛みつきました.ゲームは終わりです.ハスキーが怒って逆襲に出たので、友人がリードをつけました.わたしも3頭にリードをつけ引き離しました.友人はラグビーのシニア日本代表選手でした.彼は興奮して言いました.
「すごかったねー!これはプロの技だな.プロだと突然のゲームでも、誰がどこのポジションになるか一瞬で決まるんですよ.あなたのうちの3匹はいつも一緒に遊んでいるから、誰が何が得意かわかっていたんだなぁ.それにしてもイリスのとどめは素晴らしいね」

わたしは狼が獲物を連携プレーでしとめるとき、どうやって打ち合わせをするのか、常々知りたいと思っていました.今まさに犬たちが教えてくれました.

わたしとジャーマンシェパード

第6話 イリスとの別れ

イリスが十歳のとき、卵巣の細胞に水が3キロもたまったので開腹手術をしました.今までたいした病気もせず、本当に丈夫でした.手術後獣医は、
「シェパードは体が早く痛むんですね.内臓がボロボロですよ」
と言われました.それでも元気になり犬ゾリ大会も新たに参加しました.雪の中で遊んだり実に楽しそうでした.相変わらず何事にも、張りきります.でも家にいるときはリビングの定位置で静かに寝ていて、我が家の守り神のようでした.わたしは若い2頭がすべてに活躍する中で、イリスのプライドを傷つけないように細心の注意を払いました.わたしが車の鍵を持つとイリスはそうっと来て、連れていってくれるのか聞きます.ほかの2頭は
「僕たちは留守番だよね」
と不満げに庭に飛び出していきますが、そんなものだと思っているようでした.わたしが心配だったのは、イリスがぼけたり、足腰が立たなくなったときに彼女の尊厳が傷つくことでした.

さわやかな5月の午前3時ごろ、キャイーンとイリスの悲鳴が聞こえました.急いで起きてみると、彼女は体を硬くして座っていました.呼吸が荒く、ぽつんとうんちがありました.わたしはすぐに、お迎えが来たと感じました.そして静かに一人で行かせるべきだと思い、イリスをそっと寝かせてわたしは寝室へ行きました.苦しくはあるでしょうが、彼女は静かにしていました.そしてその日の午後3時40分に静かに息を引き取りました.前の日まで公園に行ったり、車でお使いに行き、わたしとアンパンを分けて食べたりしていたのに….別れは突然来るものでした.悔いが残るのはイリスと別れの挨拶をしてやらなかったことです.彼女が意識が遠のく前に、半身を起こしわたしを見て首を振っているのを、何のことか理解できませんでした.それは
「ママ、もう行っちゃうよ」
と挨拶をしたがっていたのかもしれません.わたしは大ばか者だと自分のことを思いました.
「犬の心がわかっているなんて、うぬぼれてはいけない」
とイリスは最後に教えてくれました.14歳と10カ月の生涯でした.不思議な犬の世界を案内してくれた友は、今はいません.でもわたしの心の中に生きていて、犬の素晴らしさをみんなに知らせて欲しいと言っています.


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